2023/04/26
赤と白 <5>
クリスマスイブ。この日を待ち侘びた男女の組が腕を絡めて誇らしげに街を闊歩している。待ち受ける店々は白い雪が不要なほど抜かりなくその舞台を演出していて、まさに演者と裏方が一体となって今日の公演がなされていた。
考えてみればこの風景のなかに身を置くのは久し振りだったと私は思った。そのためにこの場において自分がどのように振る舞えばいいのか、またしてもよくわからなくなっていた。変に緊張している自分にも気がついていた。
この銅像の前は定番の待ち合わせ場所らしい。見渡せばあちらこちらで相手を待ちぼうける者がスマートフォンと睨めっこをしている。もちろん誰もが笑みをこぼして負けてしまっていた。意外にも男性の比率が高いところに、私はちょっとした時代の変化みたいなものを感じた。
「お待たせ」
振り向くとそこには斉藤さんが立っていた。いつものざっくばらんな服装ではなくジャケットを羽織ったこざっぱりとした格好をしている。汚い格好で相手に迷惑をかけないように、かといって決めすぎるのは自分らしくない、その思考が垣間見える彼らしい出で立ちだった。
「じゃあ行こっか、アユミ」
交際を結んで一ヶ月、私たちの距離は随分と縮まっていた。それでもいまだお互い手も触れ合っていないのは、軽い関係を望んでいないと言った手前、彼の方で自制しているのかと思っていたのだけど、どうやら私の心を尊重しての行動のようだった。文字通り、私の気持ちに火が点くのを待ってくれているようなのだ。
口だけで「大事にするよ」と言う男性はたくさんいて、ただ〝ポーズ〟としてなかなか手を出してこない相手はこれまでに何人もいた。けれども私の心と向き合うことを前提としてそうする相手はいなかった。それは口にした途端消えていく言葉よりも信頼できる行動だった。
「どっか行きたいとこある?」
「えー、どうだろ」
「ま、聞いといてなんだけどさ、俺、気取ったところ行くのあんま好きじゃなくてさ。とりあえず、あそこ行こっか?」
彼が指差した先にはゲームセンターやボーリング場などが入ったレジャービルがあった。私はこくん、と頷いて彼の背中に付き従った。
自動ドアが開くと家電量販店のテレビ売り場を四つ合わせたような騒音がどっとなだれ込んできた。背後にクリスマスっぽいBGMが流れているのが微かに聞こえるものの、それを容易に上回る電子音が空間を席巻している。よほど顔を近づけないと喋り声すら聞こえなさそうだった。
「マリカーやろうぜ」
私の返事を待たずして彼は椅子に座った。ゴーカートを模したその椅子は車のシートのようになっていて、レバーを引けば前後に位置を調整することができる。足元には左にブレーキ、右にアクセルと、実際の車同様のペダルも設置してあった。私は彼のとなりの席に座るとシートベルトを締めた。
「はいよ」彼が私の分まで百円玉を投入した。キャラクターを選択してコースも選ぶ。私は悪いガメラのようなキャラクター、彼はガタイのいいゴリラを選択した。「そいつ操作難しいから頑張って」と彼は言った。
コンピューターが6人いるなかで私たちはそれぞれのキャラクターの視点で画面が表示される。始まってすぐにレースは私と彼の一対一の様相を呈した。お互いにアイテムをぶつけ合いながら抜きつ抜かれつのデットヒートが繰り広げられる。スクリーンに映し出されたコース上では私と彼による白熱のバトルが展開されていた。
けれども終わってみれば、私の圧勝だった。彼がコース外の奈落へと自爆するので、私は自分の走りを維持していればそれだけで事足りた。
「うーん、ちょっと遊び過ぎたかなー。もう一回やろうよ」
「いいよ」
再び百円玉が投入されレースがリトライされる。
しかしまたしても結果はさっきのレースと同じだった。操作性は悪いが全キャラクターのうちで最高速度を誇る私のガメラに、彼の操る図体ゴリラはその影すらも踏むことができなかった。焦って幾度も奈落に吸い込まれていく茶色い背中がひたすらに哀れだった。
「⋯⋯マジかよ」
「うふふ」
「お、おしっ、じゃあ、あれで再勝負な」
それは長くシリーズ化されている有名な格闘ゲームだった。向かい合う形で席に座ってお互いにキャラクターを選択する。彼は金髪に赤の道着という派手な空手家、私はひげの濃いプロレスラーを選んだ。
闘いは私の圧勝だった。私の放つ回転式のスープレックスに彼は為す術もなく敗北の一途を辿った。金髪の空手家はまるで等身大の抱き枕のようにプロレスラーに一方的にぐしゃぐしゃにされた。
向かいを覗くと彼はあんぐりと口を開けて信じられない、といった顔をしていた。まさかこのゲームで女性に負けるわけがないと思っていたのだろう。最初は手加減するように何もしなかったが、私が次々と技を繰り出すと彼はあたふたとコントローラーを動かし、遅れを取り戻さんばかりの猛追を始めた。けれども時すでに遅し、というか私にハンデなど与えている場合ではなく、こちらにほぼ一撃も加えられぬままに空手家は大差で床に沈んだ。
「⋯⋯そんな馬鹿な」
私は無言でピースサインを送った。
「アユミって何者なの?」
「別に何者でもないよ」
「⋯⋯おっしゃ。ほんじゃあ、今度はあれだ」そう言って彼が指差したのは麻雀ゲームだった。
通信対戦で全国の相手と四人で対局が打てる。私と斉藤さん、あとは国士無双さんと雀鬼さんの四人。それぞれの画面には自分の持ち牌が表示されている。
結果は私の一人勝ちだった。斉藤さんは最後の局で雀鬼さんに振り込んでしまい最下位に終わった。
ぱっと横を見ると彼はぐうの音も出ないといった顔をしていた。女性を麻雀に誘い込むなんてよほど勝ちたかったのだろう。なんだか私は、彼が哀れに思えてきてしまった。
「⋯⋯千円でどっちが多く獲れるのか勝負や」
そう言って彼はUFOキャッチャーを指差した。しかしそれでも彼は私に惨敗した。もはや見ていられないほどに顔を真っ赤に沸かせていた。
「クソっ⋯⋯クソがー!! なんなんだよ、マジで」彼はアクリル板をバンっ、と叩いた。さすがに人に迷惑がかかると思った私は、やんわりと彼を近くの椅子に座るよう促した。
「ほら、私ってあんまり友達いないじゃん? だから小さい頃からずっとこういう場所で一人遊びしてたんだよ。もう、あらゆるゲームが無駄に上手くなっちゃってさ」
私がそう言って慰めても彼は憮然とした顔でじっと床を睨んでいた。女性に負けたのがよほど悔しかったのだろう。悔しさと屈辱の入りまじったなんともいえない表情を浮かべている。まるで本当の喧嘩で女性に打ち負かされたような大袈裟な落ち込みようだ。
それにしても三十路前の男性がこんなことで拗ねるなんてなんと大人げないことか。私は彼を慰めつつも、込みあげる笑いを押し殺すのに難儀した。
彼の横顔を見つめながら、ふと、こんな形で男性を怒らせたのは初めてだな、と私は思った。
「ねえ、ボーリングやらない?」
「あぁん? まあ、別にいいけど」
もはや親戚の子のおもりをしている気分になった私は、彼の手を引っ張ってエレベーターで上にあがった。三階から五階はフロアすべてがボーリング場になっていた。受付を済ませて靴とボールを選び指定のレーンに向かう。クリスマスだけに他のレーンには若い子の姿が多く見られた。
「ボーリングだけはぜってーに負けねえからな」
「そうだね」
「あっ、信用してないだろ」
「そんなことないよ。わたし女だよ」
「ハンデ30やるよ」
「うーん、別に要らないんじゃないかな」
「なんだよ、ナメてんのか」
「ナメてはいないけど、うふふ。じゃあ遠慮なくもらっとこうかな」
「当たり前だろ。女相手にガチンコで勝負する奴なんてダセえだろ」
などと大口を叩いたくせして彼は大した実力をもってはいなかった。アーケードゲームに留まらずボーリングも私のひとり遊びの範疇にあり、過去にはプロからレッスンを受けていた経験もあって、私と彼との実力差は明白だった。最低でもアベレージ180は超えてくれないと私とは勝負にならない。
それだけに、いい塩梅で負けるのには相当な苦労を要した。あまり差がつきすぎてもわざとらしいし、接戦にするとまたプレッシャーで勝手に自爆してしまうので、ほどほどくらいにしておかないといけない。女にしてはそこそこ上手いが口ほどでもない、といった役どころを演じるのは思いのほか骨が折れる。ストライクもガーターも取らないように投げるのがこれほど難しいとは初めて知った。
「よっしゃあ!」
「あー負けちゃった。悔しいな」
「どうだよ。オレ、なかなかやるだろ」
「そうだね。すごいすごい」
「まあ本気出せばこんなもんよ」
まったくどの口が言うのか。喉まで出かかった言葉を飲み込み、私は「喉乾いちゃった」と自販機の方を促した。
柔らかい革のソファーが並んだ休憩所にどっかと座り、コーラのプルトップ缶を開ける。ぷしゅっ、という爽快な音を響かせ、喉を鳴らしながらごくごくと一気に流し込んだ。ぴりぴりと心地よい刺激が胃袋を満たしていく。ぷはぁ、という開放感が自然と口から漏れた。
「くぅー、染みるね」
「うん」
すっかり機嫌がなおったのか彼にはいつもの笑顔が戻っていた。まったく世話が焼ける人だ、と思いながらも、男性にこれほど率直に感情の起伏を表されるのはなんだか新鮮だった。相手にどう思われるかをまるきり演出する気もない、ぶっきらぼうともいえるその振る舞いには、どこか清々しさすらも感じた。ほんとうに無垢な子供を相手にしているようだった。
そんな奔放な振る舞いをするこの男性が、私は、少し羨ましくもあった。
「オレさ、けっこう楽しいかもしれない」
ふいに彼がこぼした。
「うふふ。それはよかったよ」
コーラを喉に流しながら私は笑顔を浮かべた。
「意外だったよ。アユミとこんなふうにゲーセンで盛り上がれるなんて」
「私がこんなゲーマーだなんて思いもしなかったでしょ?」
私はいたずらな笑みを浮かべた。
「それもそうなんだけどさ、実は、こんなところに誘ったのも半分冗談のつもりだったんだよ」
「そうなの?」
私は意外だという顔で彼を見た。
「うん。やっぱ三十前のいい大人が、クリスマスイブにこんなガキの溜まり場みたいなところで遊ぶなんて、なんか、みっともないでしょ?」
「どうなんだろうね。一般的にはそうなのかも」
多くの男女はこういう日にもっと雰囲気のあるところに出かけるのだろう。私はいつもこういう場所で一人寂しさを埋めてきたし、クリスマスイブに正式なデートに出かけた経験もあまりないので、一般の男女の感覚がどういったものなのかよくわからなかった。
「だけどオレってさ、元々こういう場所で遊んできたし、こういうところが落ち着くんだよな。変に背伸びしてカッコつけた場所にエスコート? とかするのもさ、なんか自分らしくなくって嫌だったんだよね。それでアユミを誘って、こういうオレを毛嫌いするような女性だったら、この先もきっとうまくいかないだろうから、それでフラれるのなら別にいいやと思ってたんだ」
「そうだったんだ」
まさか彼が、そんな覚悟をもって今日に臨んでいるとは全然知らなかった。あるいは、私の反応次第では、今日が最期の日になる可能性もあったわけだ。
「嬉しいな」
「うん?」
「アユミが楽しみを共有できる人だってわかって」
「私も嬉しかったよ。これからも楽しめそうじゃん」
ふふっ、と笑って缶を傾けた。しゅわしゅわとした感覚が喉の奥に落ちていく。
続く言葉がなかったのでぱっと横を見ると、彼がやけに真面目な顔でこちらを見つめていた。
「アユミが物事をお金の尺度でしか見れない女性じゃないとわかって、ほんとうに嬉しい」
そう言うと彼は、ゆっくりと缶に口をつけた。
私は首をかしげ、「ボランティアに参加するような人間に、そういう疑問をもつんだ」と言った。そもそも対価のない労働を自ら進んでやっているようなタイプなのに。
「ボランティアなんてその人の人間性の判断指標にもならないよ」
私は口に運んでいた缶をぴたりと止めた。
「オレはこれまでゴミ拾い以外にもいろんなボランティアの会に参加してきて、そこで自分の価値観に驕った人たちをたくさん見てきた。自分は善行をしているんだから偉いんだ、社会において他者よりも立派な人間なんだと、まるで選民思想のような傲慢な考えをもっている人たち。もちろん純粋な奉仕の気持ちでやっている人がほとんどだけれど、ボランティアをやるような人だからといって、それだけでその人の人間性が判断できるもんじゃないと俺は思ってるんだ」
彼は過去を回想するような表情で、そう物語った。
たしかに言われてみればそうだな、と私は思った。これまであまり深く考えたことはなかったけれど、ボランティアへの従事はその人の価値観を自ずと決定づける要素ではない。無償で社会に奉仕しているからといって、その人がお金に対する執着心がないとは限らない。
「今日、ほんとうの意味でアユミの人間性に触れられたような気がしたよ。だから嬉しかった」
そう言って微笑むと、彼はぐいっと缶をあおった。
ボランティアについて男性から活きた教訓を説かれたのは初めてだった。それ自体の経験には富んでいたものの、そこに参加する人の思考まで考えたことがなかった私は、自分がいかに他者に無関心であるかをまざまざと思い知らされた気がした。
彼は自分の先入観で他人を判断する人ではない。そう思うと同時に、斉藤さんは他者と関係を結ぶのに意外と慎重な人なのではないかと、私はふと思った。
それから私たちは「クリスマスといえばやっぱりチキンでしょ」という彼の発案でケンタッキーに入り、「食後のデザート食いたいな」という思いつきでマクドナルドのバニラシェイクを飲んだ。「このハシゴは贅沢だな」という彼の言葉にどこがだよ、と内心思いながらも、私はこの斬新なランチに楽しみを覚えた。
そして買い物袋を抱えて街を歩くカップルたちを横目に、私たちは公園近くにある釣り堀で活きのいい鯉を何十匹と釣りあげた。「そろそろ行かないとな」という彼についていくと今度は競馬場に案内され、私はそこで人生で初めての馬券を購入した。観覧席を見渡すと意外にもカップルらしき男女が散見され、世間ではこういうクリスマスデートもあるのかと感心していると、レースの開始を知らせるファンファーレが鳴り響いて野太い大歓声があがり、会場はムードもへったくれもない欲望丸出しの雰囲気に包まれた。なにも今日にまで賭け事に熱狂しなくてもよいではないか、と、私は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
ところがいざレースが始まるや、私は周りの中年男性に交じって目当ての馬に檄を飛ばしていた。「いけいけ!」「差せ差せ!」どこで覚えたのか知らない「まくれまくれ!」などといった用語さえもがいつの間にか口を衝いて出ていた。残念ながら私たちの馬券はかすりもしなかったけれど、その興奮たるや他ではなかなか味わえないものがあった。聞くところによると「G1」というもっとも格式の高いレースでしかも今年の最強馬を決める年末の一大イベントだったらしい。絶対に来年も連れてきてね、と最後には私の方から彼にねだっていた。
昂った気持ちのままゲームセンターの競馬レースでさっきの再現をしつつ、よせばいいのにまた「マリカー」を挑まれたので彼をぶっちぎりに引き離すと、格闘ゲームで私はまた彼を完膚なきまでに叩きのめした。「もう二度とやらねえ!」と喚き散らす彼の腕をとり、高校生カップルの後ろに並んで私たちはプリクラを撮った。仏頂面で立つ彼の腕に身を絡めた私は飛びきりの笑顔を浮かべていた。それがお互いの肌と肌が触れ合った、初めての瞬間だった。
もはやクリスマスなどどうでもよくなっていたところに「晩飯どうする?」と聞かれ、私は「ファミレスに行きたい」と答えていた。プリクラと同様、数年ぶりにそこに足を踏み入れた私は、なんだか無性に自分の心が躍るのを感じていた。なんら特別でないこの空間がどうしてこんなにも自分をワクワクさせるのだろうか。
私はハンバーグセット、彼はステーキセットを注文し、ドリンクバーのグラスにはメロンソーダを注いだ。「合わないだろ」と突っ込む彼に「でもこれが飲みたいの」と私は笑った。肉をひと切れずつ交換して食べ、最後はライスまでおかわりした。男性の前でお腹がちぎれるほど食べたのはいつぶりだろうか。
食後のコーヒーでまったりしていると「せっかくだからクリスマスっぽいことするか」と彼が言い出し、私たちは近くにある観覧車へと向かった。定番のスポットなのか列がずらりと並んでいて、係員に聞くと今からだと三十分待ちだと言われた。まあしょうがないよねと納得し、列を待っている間にマリカーの攻略法を彼に伝授してあげた。「なんだよ、そんなことかよ」と憤慨する彼に「ゲームってそういう差でしょ?」と私は肩をすくめてみせた。
白にピンクにと変色する観覧車のネオンをぼんやり眺めていると私たちの順番がまわってきた。ゴンドラに座ってドアが閉まると少しだけ寒さがマシになった。
光る観覧車は男女を乗せゆっくりと夜の空を回り続けていた。都会の街に二人だけの密室空間をこしらえ、このクリスマスイブに特別な十分間を提供している。今日は自分も、あまた連れそうカップルのうちの一つになっていた。
窓を眺めると周りのビルをゴンドラの高さがどんどん追い越していくのがわかった。そのたいして見晴らしもよくないところから眺める夜景が妙に美しく感じられた。「キレイ」と思わずつぶやいたその時、私は、今日一日をずっと高校の頃の自分の姿と重ねていたことに気がついた。
──私にはかつて恋人がいた。正式に交際を結んだ初めての相手だった。
あの頃の私は焦っていた。もしかすると自分は、このまま誰も愛することのないまま歳を重ねていくのではないかと、そんな不安が胸の内を席巻していた。
運命の相手なんて大袈裟な話ではなく、自分だっていつかは誰かを好きになるときがくるのだろうと、それまでの私は恋愛に対して呑気に構えていた。まわりがする恋愛話を聞いていても、相手を「好き」だと思う気持ちはとても曖昧なもので、そのほとんどが錯覚に近い感情なのだと私は気がついていた。
女が誰かを好きだというとき、そのほとんどは外見上の雰囲気を指して言っているわけだけど、得てしてその好意は相手自体に向けられたものではない。例えばそれは、学校での相手が属している階級であったり、まわりの女からの評判や人気度合いであったり、「優しい言葉をかけてくれた」などの特筆すべき印象的な出来事であったりする。それらの付属物から相手の人物像を作り上げ、その偶像に対して恋をしている場合がほとんどで、いわば、相手の人間性というより自分の中で創造された相手の人間性に向けられた好意であるといっていい。その気持ちはとても移ろいやすくちょっとしたことで簡単に消失してしまう。そのくらい好意なんてものはいい加減で、流動的なものなのだと私は思っていた。だからこそ自分にもそのうちそういう相手が現れるのだろうとタカを括っていたのだ。
けれども高校生になっても一向にその感情が胸に兆すことはなく、次第に私は自分の存在に不安を抱くようになった。もしかして私はどこかおかしい人間なのではないか、と。自分は女に嫌われる存在であるに留まらず根本的に他の女と何かが違っているのではないか、そう考えたら急に底知れない恐怖が湧きあがってきた。
このままではいけないと思った私は無理矢理にでも誰かを好きになろうとした。翻弄してもて遊ぶだけだった相手とも積極的に付き合い、形式的な恋人の時を重ねてみた。しかし、快感を抱くことはあれど、相手に対して恋心を抱くことはついぞなかった。どこまでいってもその気持ちの昂りは遊戯としてのそれでしかなかったのだ。
絶望した私はこんな自分を創った神様を恨んだ。どうしてこんな欠落した人間を世に生み出したのだ、どうしてこんな半端なままで地上に送り出したのだ、その意図や理由がどうにも理解できず、天に向かってひたすらに怒りをぶつけていた。自分が背負わされた運命を呪い、自分の存在意義を否定するばかりの暗澹たる高校生活を送っていた。
そんな時に出会ったのが圭介だった。彼は、私が初めて胸にときめきを覚えた相手だった。
私はその日、朝から河原の土手に腰かけたままぼおっとして過ごしていた。日々に希望を見出すことができず、先に待ち受ける未来について何も想像できぬまま、グラウンドで野球の試合をする少年たちの様子をただぼんやりと眺めていた。一心にボールを追いかける姿に憧れを感じていたのかもしれない。
昼になりお腹が空いたのでコンビニでサンドイッチを買って戻ってくると、少し離れたところに同じようにぼんやりとグラウンドを眺めている男の後ろ姿があるのに気がついた。なんとなく気になって近づいていくと自分と同じくらいの年齢であるようだった。
「高校生ですか?」私が声をかけても相手はこちらを見向きもしなかった。その代わりよく見ると男の目には涙が滲んでいるのがわかった。そのまま離れるべきだとは思ったものの、何を考えていたのか私は、図々しくも男の隣にすっと腰をおろした。その様子にチラと一瞥をくれたものの、やはり男は黙ったまま少年たちを見つめていた。私の方でも何も言わずにサンドイッチを食べながらグラウンドの様子を見つめていた。
一時間ほど経って「大学生だよ」と男がつぶやいた。何か嫌なことでもあったのかと尋ねると「挫折したんだよ」と彼は言った。聞くとプロを目指して野球に打ち込んでいたのが自分の才能に限界を感じて道を断念したとのことだった。
「自分で思っていたような人間ではなかったんだ」男は言った。彼はこれまでプロになる道しか考えておらず、それを前提として今日までを生きてきたため、それ以外の人生をこの先送ることが考えられなかったらしい。これからどのように生きていったらいいのかわからない、と、彼は声を震わせた。それを聞いた私は思わず「わたしも」と答えていた。悩みのベクトルは違えど互いに苦しんでいることに違いはなかった。どちらも土手に座って無為な一日を過ごすくらい塞ぎ込んでいたのだ。
それからお互いのことをちらほら話しているうちに私はこの出会いに何か運命的なものを感じ、気がつくと初めて私の方から「付き合ってください」と口にしていた。彼は最初驚いていたものの、その場で私の申し入れを承諾してくれた。きっと彼の方でも何かしら運命的なものを感じていたに違いない。
そうして始まった圭介との交際は、かつて経験したことのないほど充実したものだった。男といてこれほど楽しいことがあるのかと私は喜びに打ち震えた。
奇しくも圭介は私の人間的な好みを詰め込んだような相手だった。真面目で正義感が強くて努力家。とくに自分が何か失敗をしても一切言い訳をしないところが私の心を惹きつけた。彼はいい加減で言葉になんの重みもない同年代の男どもとは一線を画していた。
彼のことは男である以前に人間として尊敬ができた。だからこそ一緒にいて喜びを感じることができたのかもしれない。
そんな彼と順調に交際を続けて私たちはクリスマスの日を迎えた。彼が予約してくれたレストランで食事をし、彼がとびきりの場所だと連れていってくれた丘で初めて夜景を見た。それは幸せの絶頂を感じるほどに素晴らしい景色だった。
しかし、その夜景を背に圭介と口づけを交わしたその瞬間、私は気がついてしまった。自分が圭介のことを『男としては』まったく愛していなかったという事実に⋯⋯。
それは私にとっておぞましい出来事だった。あまりにも恐ろしく、思い出したくもない惨めな悟りだった。
けっきょく私も他の多くの女と同じように幻想を追っていただけなのだった。これまでに感じた数々の胸のときめきは、しがみついた心が自作自演に起こした創造の高鳴りだったのだ。
自分の好みをすべて詰め込んだような圭介、そんな相手ですら無理だったのなら、この先どんな男が現れようとも恋などできるはずがないと私は思った。そしてそれは自分の中の『私』という悪女を一生背負なければならないことを私に理解させた。皮肉にも、その交際経験によって晴れて私は『私』の開眼を得たのだった。
私たちが真から陶酔していたはずの交際の思い出は、生きる意味を見失っていた二人の男女が、お互いの人生に意味付けをするために共同事業によって築きあげた、いわば張りぼての愛の城であったのかもしれない──。
「オレさ、女性恐怖症なんだよね」私を夢想から呼び戻すかのように、彼が言った。
「十代の頃にこっぴどいフラれ方してさ、それから女性にあんま積極的になれないんだ」
「へえ、そうなんだ。そうは思えなかったけど」私はその言葉を訝るように彼を見た。
「無理矢理じぶんを焚きつけてただけだよ。ほんとは心臓バクバクだったんだ。今もそうだもん」
「ふーん。表面上だけではわからないもんだね」
私はなおも彼の言葉を疑っていた。出会ってからこれまでそんな素振りは一度も感じたことがなかったからだ。
ちょっとした意地悪のつもりで「こっぴどいフラれ方って?」と、私は冗談半分に聞いてみた。
すると彼は「セックスが気持ち良くないから別れたい。って言われた」とつぶやくように言った。
私は向かいに座る彼の顔をまじまじと見つめた。どうやら、冗談で言ったわけではなさそうだった。
「オレさ、すごい〝早い〟んだよ。そっちのことにあんま自信なくてさ」
軽い口調で話してはいるが、彼のひざが小刻みに震えているのを、私は見た。
「だから満足させてあげられなかったら、ゴメン」
彼は冗談めかしたような、それでも半分私に請うような表情で、そう言った。
二人の間にしばし沈黙が流れた。お互いに見つめ合ったまま、ゴンドラが軋む音だけが聞こえていた。
そのうちに私たちはどちらからともなく顔をほころばせた。そして、声をあげて大いに笑い合った。
ひとしきり笑うと、彼は私の隣に移ってきた。手を握られたので私の方もぎゅっと握り返した。
彼の顔がゆっくりと近づいてくるのを感じた。私は、静かに目を閉じた──。
いつも率直に映っていた彼の人間性は自分を奮い立たせる姿勢の表れだった。それを知ったとき、私がどうして彼に惹かれたのかがわかった。裏表のない性格や自分の弱みを見せられること、それらはすべて持ち合わせた勇気の成せるものだったのだ。ありのままの自分をさらけ出せる彼のその勇気に、私の心は強く惹きつけられていたのだろう。
斉藤さんは私にとってもったいないほど素敵な男性だ。これほど尊敬できる相手は他にいないし、こんな人と一緒に生きていけたらこの先どれほど素晴らしい人生が待っていることかと思う。いや、生きていきたい。私はこの人と、この先をずっと一緒に生きていきたい。
『私』という悪女を受け入れてくれた男性は彼が初めてだった。そしてそれを含めて私を愛してくれた男性は彼だけだった。
私は気づいてしまった。私は、彼を愛している。私は、彼のことを心から愛している。
私はこの先もこの男性と伴に生きていきたい。この繋いだ手を私はもう二度と離したくはない。
──それなのに、この口づけはどうして、何の味もしないのだろう。
これほどの多幸感に包まれてなお私の心は恋に落ちることがない。なぜ愛する男性を前にして私は女の悦びに打ち震えることがないのだろう。どうして私は恋愛という病魔に蝕まれ我を忘れるほど相手を貪り狂うことがないのだろう。
どうして、どうしてなの。ねえ、答えてよ。
込み上げる感情を必死に押し殺し、努めて平静を装ったまま、私は目を開けた。そこには穏やかな微笑みを浮かべる斉藤さんの顔があった。
そのあまりにも魅力的な彼の顔を見たとき、私は、彼の元から去ろうと心に決めた。
二十四日の喧騒から身を隠すように、私は暗い裏通りを歩いた。街灯もロクにない夜道はいかにも物騒だったがどうでもよかった。
不思議と涙は流れてこなかった。悲しみよりも徒労感の方が強かったからかもしれない。私は、私という存在に少し疲れていた。しばらくは遊戯としての恋愛もしなくていいやと思った。
夜空に星がキレイだった。排気ガスでうす汚れたキャンバスに描かれた、街のネオンに輝きをぼやかされた粒子たち。私にとってはこれくらい親近感が感じられる美しさがちょうど良かった。この星空こそが、私の日々を見守ってくれているのだから。
見上げたまま私は立ち止まり、ぼやけた光に照応するように、その場で思い切り伸びをした。それはほとんど諦めにも近い、受容の意志から生じたものだった。
とんっ、と背後からぶつかられた感覚があった。おもむろに振り向くと、べちゃべちゃに濡れた刃物を握りしめた男が立っていた。男はたしか遊助という名であったはずだった。
私は腰に手をあてた。ぬるりと生温かいものが手のひらにべっとりと付着した。途端、視界がぐらりと歪み、自分が男に刺されたのだとわかった。
「きてたんだね」私は言った。
「ア、アユミが悪いんだからな」男は取り乱した様子で甲高い声をあげた。
「アユミが僕を裏切ったんだぞ。僕は決してアユミのことを裏切らないと誓っていたのに」
「裏切った?」
「そうだよ! 僕に隠れて他の男といちゃいちゃしやがって。ずっと見てたんだぞ!」
男は金切り声で叫び、その場で地団駄を踏んだ。暗い夜道に男の怒鳴り声がこだました。
私は思わずふっ、と笑みをこぼした。なあんだ、そんなことか。
「それが私だからね」
男は肩で息をしていた。
「ふう、ふう、ふう⋯⋯な、なにを、言ってるんだ」
「それが新垣アユミなんだから、しょうがないよ」
男は焦点の合わない目玉をくりくりと動かしていた。
「安心して、あの人だけじゃないから。他にもたくさんいてね、いつも取っ替え引っ替えして遊んでるの」
私は恍惚とした笑みを浮かべた。
「どんな遊びか知ってる? この世界にはね、女に飢えた男がたくさんいるじゃない。そういう男の前にね、餌を垂らしておくのよ。そうするとね、パクって喰いついてきてね、自分の方に引き寄せようとするのよね、男ってね。そこでね、それがさも男のものになるかのようにね、魅せてあげるとね、いよいよ一層熱をあげてね、一生懸命にしがみついてくんのよ。ところが、ざーんねーん。男がね、自分のものにできると思ってね、喰いついたものはね、実はね、すっごい頑丈な鎖で繋がれててね、どれだけあがいたところでね、どうせ誰にも占有することはできないのよ」
言葉が流れるように口を衝いて出てきた。私は自分の口から奏でられるその言葉に耳を寄せていた。
「それなのに男ってさ、ほん⋯⋯ねえ、あんた聞いてんの? ほんとにさ、男ってほんとにかわいくってさ、ちょっとでも自分のものにできると思ったらさ、それを信じて一心不乱に突き進んでくんのよ。マジで死に物狂いでどうにかしようと躍起になっちゃうのよ。そのあまりにも滑稽な姿がね、ほんっとにもう私、可笑しくって可笑しくってさ、きゃは、ねっ、たまんなくなっちゃうわけよ」
私は目の前に広がる虚空を見つめていた。そしてどこまでも饒舌になる私の話を静かに聞いていた。
「もはや手に入れたも同然、って安心しきった男の期待を踏み躙ってやったときのあの顔、目の前が真っ暗になって血の気を失くしたみたいに絶望に暮れるあの顔、一人前の大人が濡れた犬みたいに潤んだ目で請うように擦り寄ってくるあの顔をね、あなたさ、見たことある?」
男がじりじりと近寄ってくるのがわかった。私は両手を大きく広げた。
「私ね、そういうときのね、男の姿が愛おしくってたまんないのよ。その男の顔を見るとね、あはははははっ、もう、嬉しくって、嬉しくって、たまんないのよ」
「くああああのぶべあああああああああああ」
男が怪鳥のような声をあげて胸に飛び込んできた。途端に、燃えるような熱さがお腹から全身に広がっていくのを感じた。
ザクっ、ザクっ、ザクっ、ザクっ、ザクっ、ザクっ、ザクっ、ザクっ、ザクっ。
まるで私の体を掘削するみたいに、男は私の至るところに刃物を突き立てているようだった。私は的になった気分で、体中から軽快に噴き出す血飛沫に見入っていた。
ぼんやりとしたまま、走り去っていく男の背中を見送った。足元にはドロドロとした真っ暗な水溜りができていた。そこに浸っていた刃物が月の光を浴びて煌々と輝いていた。拾おうとして屈んだら、そのまま地面に倒れ込んでしまった。
幸いにも仰向けになっていた。視線の先には満点の星があった。
さっきよりも見にくくなった星たちを眺めながら、私は私をまっとうすることができたのだろうか、と思った。
せめて最期はありのままの私でいようと思った。笑われることのないように、私が私であることを恥じることのないように。
体は心地よい疲労感に包まれていた。もはや指一本動かすことはできなさそうだった。
どこかから、「サイコパス」と呼びかける声が聞こえてきた。私はふっ、と苦笑いを浮かべた。
じゃあ、どうすればよかったのよ。
教えてよ。ねえ、教えてよ──。
声にならない声で、私はそう、つぶやいた。
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