逃げられないから距離をとる

 

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この世に生きる誰しもが「死」といういつか訪れる運命からは逃れることができないように、自由に見えるこの社会においても、生活するうえで逃れられないこと、というものが僕たちには存在しているようです。年金の支払いや所得税の納付といった「義務」だけでなく、人と一緒に暮らしていくうえでの暗黙のルールや決まり事。小さなことでいえば「騒音に配慮しろ」とか、そういう類のもの。

今でいえば、間違いなく「感染(症)対策」がその一つにあげられます。自分自身への影響は別として周囲の方に対する配慮が求められる。そこに個人に対する罰則の定めはないけれども、もはや社会の一員として生活していくうえでは、誰しもが無視できないルールとなっています。

それに対して「別に自分は関係ねえよ」という態度で臨むには相当な根性が要求されますし、また実際に実行した際の周囲からのバッシングは壮絶であることが予想されるため、もしも自分の意思がマイノリティであった場合でも、その意思を貫こうとする人はまずいないと思われます。実行した時の惨状はニュースなどでご存知の通り。

たとえそこにどのような正義があったとしても、それを〝社会の一部〟として見る周囲の目からは逃れられないわけで、やはり「自分だけは関係ない」という姿勢を貫くのは難しいように思います。いや、はっきり言って不可能ではないでしょうか。いわば〝無理ゲー〟みたいなもので、かの問題を自分だけがスルーして生きていくことはどうあがていも無理だと思う。無関係で切り抜けることはできないのではないでしょうか。

だからこそ「逃げられない」という事実を、まずは受け止めないと仕方がないと思う。自分が社会の一部であるという自覚や責任、なんて小難しい話は別にして、無関係で処理することは不可能である、という理解に立つことがまず求められる気がします。どうあがいても逃れられない、という認識だけはもたないと仕方がない。

ただ、たしかに逃れられはしませんが、距離を置くことはできると思います。

例えば、職場の同僚たちの間でその話題が出た時はその場から立ち去る、とか、友達がそのことで熱い議論を交わし始めたら自分はそこには参加しない、とか。善悪の是非、正義感の定義、かの問題について軋轢が生じそうな場面を察知したら即座にその場から退避する。

かの問題については人と議論を交わさない方がいい、というのが僕の考えです。

人には人それぞれの価値観があって当たり前で、一人一人が異なる考えを有しているのが当たり前だと思います。それこそが個性であり、人それぞれに与えられた自由だと思う。いわば権利みたいなものでしょうか。

ところがそれを人と議論してすり合わせようとすると、途端にそこに争いが起こってしまいます。

誰しもが自分の考えを否定されたら腹が立ちます。負けじと相手に反論したくなりますし、相手を納得させてやろうと躍起になってしまいます。しかも議論のテーマは「人生観」。そんな各人の生き方の根源みたいなところをなじられて黙っていられる人はいません。白熱した議論は次第に感情での言い合いに発展し、そのうち手が出てしまう場合もきっとあるはず。

議論なんてしない方がいいです。自分の中だけに留めておけばいい。

逃げることはできないけれども、距離をとることはできる。そうやってこの問題と相対していこうと僕は意識しています。

 

 

論理的思考からは論理的な結論が生まれる。

それは結構。たしかにその通りであろう。

しかしどこまでいっても最後に決断を下すのは自分。

その場合において必要なのは、確かな理屈ではなく、自分の思いただ一つ。

自分がそうしたいのかどうか?

詰まるところ、最後はそういうところに行き着くのではないかと、そんな気がしてならない。

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