2021/08/23

過剰な修練は単なる苦行

 

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今日は「負荷(ふか)」について書いてみようと思う。

〝人として成長するためには社会に出て様々な修練を積む必要がある。それこそが一人前になるためのステップであり、立派な社会人として社会に貢献するということである〟

いつから定着しているのかは知らないが、一般的にこのような社会規範がこの国には築かれている。

外国人曰く、日本人というのは稀に見る勤勉さを持ち合わせた民族であるらしい。これほど真面目で協調性の高い国民性をもった国というのは他にないのだそうだ。

あるいは上記の社会規範がその礎を担っているのかもしれない。かの認識が一人一人にあるからこそ、日本人は社会貢献の意識が高く、それゆえに誰もが比較的暮らしやすい社会が築かれているのかもしれない。なんといい国なのであろうか。

だけど、上記のような外国人評を耳にすると、僕はふと、こんなことを思ってしまう。

〝本当はもうちょっといい加減でいいんじゃないの?〟

ここ日本には、古くから「修練を積む」という考え方が根付いている。

社会に出て働くことは修練。家族を築いて子供を育てることも修練。人生で訪れる様々な苦難に立ち向かい乗り越えること。それすなわち人としての修練である、と。

「人生とは苦しいものだ」お釈迦様もそのように説いている。

この国の人々には、何千年も前から脈々と〝修練を積む〟という考え方がDNAレベルで染みついているのではなかろうか。だから外国人から「勤勉だ」とか「真面目だ」と評されるほど、一人一人の社会人が真面目にコツコツと仕事をするのだと思う。

〝あの国の人たちはどうしてあんなに頑張るの?〟と揶揄されるほどに。

 

 

僕は日本が好きだ。そしてまたこの国の国民性も好きだ。

どれほど外国人から嘲笑を受けたとしても、真面目で勤勉であるこの国の人たちを誇らしく思っている。

ただ一点。

「どうして社会のために修練を積む必要があるのだろうか?」

人として成長するために僕たちは修練を積む。あくまで〝自分の為〟に。

ところがいざ社会に出てみると、社会に貢献するために修練を求められる場面が多々あることに気がつく。「これも会社の為だ」とか「これも働いている皆んなの為だ」といった具合に。

社会のために一人一人が苦しい思いをしなければいけない。それだったらば、社会とは一体、誰のためにあるのだろうか?

一人一人が幸せに暮らすために社会があるのであって、社会のために一人一人があるのではない。社会を良くするために一人一人の人生が犠牲になってしまっては、まったくもって本末転倒なのだ。

たしかに修練を積むのは素晴らしいことだと思う。それ自体を否定する気はない。

けれどもその修練がひたすらの「忍耐」と化してしまった時、それは修練ではなく、もはや単なる〝苦行〟に過ぎないのではないだろうか。

そう、そこで今日のテーマである「負荷(ふか)」という話につながる。

修練はたしかに人を成長させてくれる。

けれどもそれは『適度な負荷』としてかかってこそ、効果があがるのではないだろうか。

例えば、筋トレでいうところのバーベル。

50kgのダンベルにそれなりの重さを感じている人が、いきなり100kgのダンベルを担いでトレーニングをしたらば、筋肉に過剰な負荷がかかってしまう。ハードなトレーニングによってより大きな筋肉がつくどころか、むしろ筋肉の繊維が切断されて怪我をしてしまう。ただ体に痛みを与えることになるだけなのだ。

修練は大事。しかしそれが苦行と化している時、修練を積んでいると思っていても、実のところは自分の体をいじめているだけ、ということがある。

だから社会であまりの苦痛を強いられているような場面では、自己成長につながっているのではなく、単に自分を苦しめているだけなのかもしれない。そのような〝疑いの気持ち〟をもって社会で生活することが大事なのではないか、と個人的に思うのだ。

社会のために自分の人生を犠牲にすることのないように。

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