2021/08/23

道徳では幸せになれない

 

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テーマ:謙遜

 

今の社会を道徳に照らして考えた場合、
果たしてそれはどのように映るのだろうか。

例えば、「ユーチューバー」はどうだろう?

誰かに内緒でイタズラを仕掛けたり、
ドッキリをかけて人を困らせたりしながら、
稼いだ再生回数によって広告報酬を得ている彼ら。

そんな彼らを道徳に照らして見た時、
果たして良い生き方をしていることになるのだろうか?
それとも悪い生き方をしていることになるのだろうか?

”まっとうな報酬はまっとうな仕事によって得るべき”

そのような考え方に照らして考えると、
人は社会の役に立つことで報酬を得るべきだという話になるだろう。

その視点からすると、彼らは、
「観る人を楽しませている」という意味では人の役に立っていると考えられる。

ただ、そのために提供している動画は”まっとうなもの”なのだろうか?

彼らが喜ばせているのは暇を持て余した若者たちだ。

そんな若者たちに現実逃避の時間を与えている彼らの動画は、
果たしてこの国の社会に役立つものなのだろうか?

 

 

では、「クラウドファウンディング」はどうだろう?

自分が成し遂げたいことに必要な資本を調達する手段として、
自分が働いてお金を貯めるのではなく、他人からお金を集めるというこの手法。

従来は他人から資本を調達した場合、
その支援者に対して相当な利子を支払うことが当然であった。

銀行から融資を受けた場合は返済という形で、
資本家から投資をされた場合は配当金という形で。

けれどもクラウドファウンディングの場合は、
自分で決めた「お礼」を提供することがその弁済とされる。

つまり、少し乱暴に言ってしまえば、借りた金を返さなくてもいいわけだ。

しかも銀行や資本家から調達する場合と違って、
信用調査などの類もなく、しかも不特定多数の相手から資金を調達することができる。

インターネットの無かった時代には到底考えられない資金の調達方法だろう。

では、このやり方を道徳に照らして見た場合、
果たしてまっとうなやり方をしていることになるのだろうか?
それとも道理に合わない不当なやり方をしていることになるのだろうか?

道徳の観点から資金調達を考えると、
「人から借りた物はきっちりと返さなければいけない」
ということになるだろう。

C・Fはお返しという形で支援者に一応の返済はしているものの、
本来提供された資金を返済しているわけではない。

しかも見ず知らずの者に提供してくれた相手の心意気に感謝するならば、
お返しは提供された資金以上のものにして返すべきだろう。

そう考えた時、果たしてC・Fとはまっとうなものなのだろうか?

そしてそれはこの国の社会に役立つものなのだろうか?

 

 

これらを道徳に照らして見た場合、
ハッキリ言ってまっとうなものだとは言い切れないだろう。

けれども、僕は思う。

 

”だから何だよ?”

 

別に道徳的に正しかろうが間違っていようが、
そこに携わっている人たちが喜んでいるのならばそれでいいと思う。

その”現象”に参加している者たちが笑顔になっているのならば、
それでまったく問題ないじゃないか。

道徳的にどうだとか、そんなことはどうだっていいのだ。

 

・・そう、もはや道徳なんかで人の幸福を図ることなどできやしない。

 

社会の道徳が示す生き方というのは、
社会人としての生き方の一つに過ぎないのだ。

それが絶対的に正しいものの考え方だなんて単なる傲慢。

僕たちは、幸せになるために人生を生きているはず。

そのために何を掲げて生きていくのかは道徳なんかじゃ決められない。

 

なぜならそれは、自分が「どう生きたいか?」によって変わるはずだからだ。

 

 

謙遜という道徳も、一つの生き方に過ぎない。

僕自身はある時を境にして謙遜することを辞めた。

たしかにそのせいで目上の人から好かれることはあまり無くなった。

 

けれどもそのお陰で、ようやく自分らしい生き方を確立することに成功した。

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