2021/08/23

道徳は単なる「参考意見」

 

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テーマ:謙遜

 

社会には道徳がある。

あれをやってはダメ、これをやってはダメ。

とくに法律で定められていなくとも、
社会には一定のルールが設けられている。

ただ、そのルールを定めたのは一体誰なのだろう?

対人関係を築くうえでは無視できないこの縛りを作ったのはどこの誰なのだろう?

・・実は、それは孔子でも論語でもない。

今を生きる僕たち「現代人」だ。

 

 

謙遜することの利点を一つ挙げるとするならば、
「他人に嫌われない」ということだろう。

謙虚な姿勢でいる人を嫌う人間はいない。

もしもいるとしたら、僕のような偏屈な人物くらいだ。

僕は、やたらと謙遜する人を見ると不快な気分になる。

 

”もっと自分を大切にしろよ!”

 

僕たちは謙遜する必要などない。

もっともっと自分に自信をもっていい。

あなたは、あなたが思っている以上に価値のある人間なのだ。

「いえいえ、私なんて・・」

そんなことばかり言っていると、
本当に自分は価値のない人間だ、と自分自身が信じ込んでしまう。

なぜなら言葉は”洗脳”だからだ。

僕たちは常に何かに洗脳されて生きている。

どこかの誰かによってもたらされた価値観を拠り所にし、
自分が正しいと思う生き方を全うしようと今を生きている。

そしてまたより良い価値観に出会った時は、
以前までの価値観を捨てて新たな価値観を拠り所に新たな人生を生きる。

要するに、すべては「何を拠り所にするか?」の話なのだ。

特定の価値観を拠り所にして生きる姿勢、
それはまさに何かに洗脳されている状態だといえる。

だからこそ、
世間の道徳も、宗教の教えも、親の教育も、
すべては一つの”拠り所”に過ぎない。

それらは正しいも間違っているもない。

そんなのものは、
「いま自分がどう生きたいか?」
によって変わるのだ。

唯一無二の正しい生き方など、この世に存在しない。

生きていれば僕たちの価値観は変わっていく。

きっと死ぬまで変わり続けるだろう。

だから自分が正しいと思う生き方も、
死ぬまで変わり続けるというのが自然な流れなのだ。

・・そう、だからこそ、
世間の道徳も同じように変わっていくのが自然な流れだと思う。

時代の変化と共に変わっていく一人一人の価値観に合わせて、
「人間はどう在るべき」という道徳観も変わっていくべきだ。

何が正しい生き方なのか、
つまりは何が正しい道徳なのか、
それは現代を生きる僕たちが決めて然るべきだろう。

いつまでも古びた価値観にしがみついていては窮屈で仕方がない。

もしも僕が現代における道徳を定めるならば、
「自分の感性に従うべき」という生き方を提示する。

現代は完全なる個人の時代だ。

仕事(職業)もライフスタイルも多様化していて、
その人にとって何がベストな選択なのかが分からなくなっている。

もはや生き方なんて、一つに決められるものではないだろう。

自分を幸せにできるのは自分しかいない。

だから社会の道徳も、それに沿うような形であるべきだと思う。

つまりは自分の感性に従って生きることが、
その人にとっての正しい生き方ということになるのではないだろうか。

今や謙遜する若者も少なくなってきている感がある。

そういった変化が良いか悪いかなんて話ではない。

それがすなわち、
”生き方が多様化している”
ということの表れなのではないだろうか。

 

 

自分を幸せにできるのは自分しかいない。

そんな現代において、謙遜するかしないかは一つの選択肢に過ぎない。

謙遜していれば他人に嫌われることはないだろう。
(とくに上司や年上の人間には嫌われない)

けれどもその姿勢が骨の髄まで染みてしまえば、
自分はあまり価値のない人間だと自分自身が信じ込んでしまう。

そんなことではあなたの人生がもったいないと僕は思う。

だから、僕たちは、謙遜する必要なんてない。

 

「謙遜せよ」なんて道徳は、単なる”参考意見”に過ぎないのだ。

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