2020/12/23

この街の不動産屋さん 6

 

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 電車が動き出した。やたらと大げさなフェンスが窓の外を流れていく。

 大阪へ越してきた当初にはこんな可動式のホーム柵はなかった。転落防止のために必要な処置だったらしい。安全のためには良いのだろうが、柵の開閉を待つ分だけ電車の出発が遅れる。ふと、せっかちな川上が文句を垂れる顔が浮かんだ。

 「次は玉造(たまつくり)です」

 この時間帯の地下鉄はかなり空いている。通勤と帰宅のラッシュ時は相当な人の数だが、今は座席で書類を広げられるほどにガラガラだ。あと二時間もすれば終電がやってくる。

 少し前まであのラッシュの一員であったことが懐かしく感じられる。

 毎日夢を追いかけることに必死だった。一分一秒の時間が惜しかった。合間を見つけてはひたすらビジネス書を読み漁った。もちろんそれは電車に揺られている間も例外ではなかった。

 いつしかそれは宅地建物取引士の教材に置き換わっていた。開業の決意が固まると同時に資格取得に向けた勉強が始まった。かつてまともに机に向かったことのない人間が一発合格できたのは、やはり、不思議な追い風が吹いていたからだろうと思う。

 そう、すべては偶然の積み重ねだった。

 アイディアの閃き、凄腕プログラマーとの出会い、先のテナントが土壇場にキャンセルしたことによる一階店舗の繰り上げ当選、返事を渋っていた銀行からの融資承諾の連絡・・それらの出来事はまさに連鎖するように起こっていった。

 決して最初からとんとん拍子だったわけではなかった。

 むしろいっ時は絶望的な壁に進路を阻まれ、もはや気持ちは折れる寸前であった。断念という言葉が何度も頭をよぎった。家族のことを考えるならば、理想の追求など、頭の中の空想にとどめておくべきなのかもしれないと思った。

 ところが、そんな降参するかの瀬戸際において妻はこう言った。

 「夢の断念を家族のせいにせんといてな」

 なんという厳しい一言なのだろうか。苦悩し葛藤を繰り返す夫に対する気遣いが感じられない。まるで余所事みたいに突き放す冷酷極まりない言葉。

 けれども長年連れ添った間柄であれば十分に理解できた。

 それが、何を犠牲にしてでも夢を追いかけろという、妻からの後押しであることが。

 「扉が閉まります。ご注意下さい」

 あの瞬間から全てが変わった。絶対に成し遂げるという揺るぎない信念が心に芽生えた。

 不思議なもので状況は次第に好転していった。不可能だと思われた壁にも突破口を見出すことができた。

 それからはすんなりと物事が進んでいった。目的地まで一度も立ち止まることはなかった。まるで何かが後押しをしてくれているように道が開けていった。

 用意するものは何もなかった。なぜなら、必要なものは向こうからこちらへとやってきたからだ。何かの法則? なのかは不明だが、首尾よく物事が運んでいった。まさに自分は求めるものを強く念じてさえいればよかったのだ。

 今振り返っても、絶望的な局面に転換をもらしたのは、間違いなくあの時の妻の一言だった。あの言葉がなければ、きっと今頃はまだ頭の中で妄想が繰り広げられていただろう。

 そしてそれは実現されることなく、アフターファイブのビールの泡とともに消え去っていたかもしれない。

 「パパー、お帰りなさい」

 「おお、櫻。起きててくれたのか。ただいま」

 久しぶりの娘との対面だ。こんな時間に帰ってきたのはいつぶりだろうか。

 「ああ、生きてたん? 良かった良かった」

 全力で抱きついてきた娘の背中越しに見えた最愛の妻は、高杉の大好物のハンバーグを食卓に並べ、いつもの調子で労いの言葉をかけてくれた。

〜続く〜

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