2021/08/23
自然には全部ある
登山が趣味だと人に言うと、
だいたいの人に”ふっ”と鼻で笑われる。
そして次に続くのは決まってこの質問だ。
「山に登って何があるの?」
しんどい思いをして登ったその先に、
美味いラーマン屋やオシャレな雑貨屋があるわけでもない。
そんな所にどうしてわざわざ苦労をして登るのか?
というもっともらしい疑問だ。
きっとマラソンが趣味だと言った人にも同じ質問をしているのだろう。
けれども彼らには「痩せる」という格好の大義名分がある。
だからこの文明社会下をわざわざ自力で移動する彼らの存在が、
俗人化したコモディティ人間たちの嘲笑の的になることはない。
山が好きだ、などとのたまう人間は、
まずもって他人から変わり者扱いされる。
だから僕は、誰にも言わずに一人で山に出かけることが多い。
わざわざ自分から人にからかわれるようなマネをする必要もない。
それに一人で登る方が、より自然の空気を感じられて良いのだ。
山に何があるのか、といえば「全部」だ。
山にはこの世界を生きるために必要なものが全部ある。
だからどうにも悩んで行き詰まってしまった時には、
高い山に登れば万事解決することが多い。
もちろん人によりけりだとは思うけど・・
少なくとも僕の場合は、そうだ。
過去の書籍にも書いたけど、
僕は山に登って涙を流したことがある。
圧倒的な『理解』が降ってきて、目から自然と涙がこぼれたのだ。
この世を生きていることにずっと意味を見出せなかった自分に、
山がそのすべての答えを教えてくれた。
それは感謝と言葉で表すとどこか安っぽく感じてしまう、
止め処なく溢れ出る「ありがとう」の気持ちだった。
自殺しなくて良かった、と。
僕たちは自然に生かされている。
キレイゴトに聞こえてしまうかもしれないけれど、
これは、逃れようのない事実だ。
自然がその気になれば人間なんてほんの数時間で絶滅させられる。
大地を震わせ、山を唸らせ、海を走らせ、空を鳴かせれば、
この地球上に立っていられる者は誰一人としていなくなる。
そんな自然の恐ろしさを知っていながら、
僕たちは自然から物資を拝借して文明の発展を押し進めている。
相手の容姿が変わってしまうほどの掘削を行いながら・・
しかし、それでも自然は、僕たちを見守ってくれている。
ただそこにいて、黙々と活動を続けてくれているのだ。
山に降り注いだ雨は川となって大地を流れ、
行き着いた先で海となってしばらく漂う。
そのうちに太陽に照らされて今度は雲となり、
再び雨となって山に潤いを与える。
そうやって変わらずに、ずうっと「循環」し続けてくれているのだ。
その循環の中で生息する僕たち生物は、
必要なエネルギーを摂取しながら各々の人生を生きている。
何千年、何万年と生きてきた自然からすれば、
きっと僕たち生物なんてあまりにもちっぽけな存在だろう。
たかだか30年、40年生きただけで、
踏ん反り返ってこの地球を我が物顔で闊歩しているのだから。
あまりに可愛らしくて、あまりに愛おしいに違いない。
だからきっと何も言わず、ただ見守ってくれているのだろう。
たまにお痛が過ぎた時には制裁を加えてくれながら・・
そうやって存在し、循環し、活動し続けてくれている自然の中へ、
僕たちは母体を通して大地に産み落とされる。
所詮僕たちは、自然の中にお邪魔して今を生きているに過ぎないのだ。
感謝を忘れると憎しみが湧く。
憎しみは怒りや恐怖や不安を生み、
人間関係をドス黒い色で染めてしまう。
たしかに世の中には色んな人いる。
嫌なことを言ってきたり、嫌なことをしてきたりする人がいる。
けれどもそんな人たちと関わったところで損をするのは自分なのだ。
自分自身の人生が暗い色に染まってしまうだけ。
たとえ憎しみに任せて相手を攻撃し、
相手を懲らしめて満足することができたとしても、
その次に待っているのは果てしない「無」だ。
そこには何もない。
達成感も充実感もやりがいも何もない。
悦びや、ましてや悲しみさえもない。
ただひたすらに、「無」があるだけなのだ。
憎しみに支配されている時には人に感謝することができないかもしれない。
けれども圧倒的な自然を前にしたら畏敬の念を抱かずにはいられない。
人にはできずとも、自然には感謝をすることができるはずだ。
そして自然に感謝をすることができる自分であるならば、人にも感謝をすることができるはずなのだ。
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